dalle’s blog

大体音楽と馬と個人的な記憶の記録にシフトしていくようにしています

【200927時点】愛のことば/スピッツ

この間モーニングで入った喫茶店でずっとスピッツがかかっていた。

最初はいいな〜とか、懐かしいな〜とか、やっぱりベースってマジでどうにもならない(言語化できない重要性が高すぎる。ただ、それについて、いや、この話はやめよう。表立った味方より、敵が増えるだけだろう)とか思いながら窓の外を眺めていた。
あまりにも気持ちがよかったので、「南無阿弥陀仏を唱えると極楽浄土に行ける」という感覚のような、スピッツを聴くと穢れを置いていけるかもしれない、という、なんの信仰心も持たない人間のエゴをむき出しにした共通点を見出した気になって、それを誰かに伝えたいとすら思った。

そのうちプレイリストが進んで「愛のことば」が流れた時に、唐突な目眩というか、昔からこの曲に対してもっていた「嘔吐し切った後の爽快感(でも不快なことには変わりない)」が体を歩き回って『うわっ』という気持ちになった。おそらく今後もこの感覚は無くならないのだろうから、一旦今思っていることを洗いざらい記録しておこうという気になっている。

私自身はスピッツの熱心のファンではないし、生きている時間の95%は洋楽、残ったうち3%がT.M.Revolutionとほぼ規定値が決まっているので、日本の音楽自体にめちゃくちゃのくちゃににわかだし、お察しの通りこれは叩かれたりしないための保険なので、ご安心ください(自分に対して言っている、大丈夫だよ、書いても大丈夫)

https://youtu.be/adI0F9wWZ_8

まずスピッツは私の子供の時からメディアを通して触れることができた音楽だった。意識せず良く聴いた気はする。
大人になってからの一番濃い出来事もある。ある時関係があった人が楽器を手に取るきっかけになったアーティストがスピッツで、よくその話をした。その人と関係がなくなった時、あまりに私がスピッツを聞いては泣くので、「セックスしよ」が合言葉のおじさん友達に「気持ち悪いからやめろ」と言われた。気持ち悪い、と言われて愛されていると感じたのは珍しいからよく覚えている。ちなみに、そのフリーランスおじさんとはなんだかんだビジネスの話をすることが多く、合言葉は合言葉以上の仕事を与えられず、沈黙を破るお互いの手札というだけのセリフだった。

最初の「抜け出そうと誘った 君の目に映る海」という歌詞がわからない。(わからないから入るってなんだろう)
抜け出そうと誘ってくれたのは君なのか、誘った自分から見た時の、虚無を見つめる瞳に映った海を描写しているのか。いずれにせよ、ここから別に性別を感じることはないし、立場が逆であったとしてもそれは関係なく、お互いの匂いがどのくらいの距離でかげるのかという関係性を想像して計った。

お互いがいれば大丈夫だとも思わないし、自分がいれば大丈夫だと言い切れる自信などさらさらなく、ただ、一人でいることよりはいい選択な気がする、という、完全にマイナスに振り切った更地の上で灯す光のような、絶対にいいわけないのに悲観もできないという。「嘔吐した後の爽快感」でじゃない?これ以外に思いつかない。だから吹いてくる風も「なまぬるい」のだと思うし。ただ、ぬるかろうと「風」があるだけ生きている感じがあっていいよね。無風の方が残酷かもしれない。そして、本当は相手が一番大事だとも思っていない。

サビの中で出てくる「煙」は、次に続く「溶け合いながら」から推察すると、通常、セックス中(前)のタバコのような感じなんだろうけども、私は「自発的な煙、すべて」だと思って、例えばタバコだとしても、雨上がり、夕暮れが始まるか微妙な時間に、ベランダ会話しながらで吸うタバコ、夏、少し肝を膨らませてたのに5本くらいで「やっぱり帰ろう」と言ってしまった手持ち花火、寒いから買ったコーヒーが旨くなかったとき「温度を買ったのだ」と自分に言い聞かせるための吐息。そう言った時に交わされる、直接的ではなかったにしても交わされる言葉が、「愛の言葉」なのかなと思う。

そうやって「マイナスの地」に生きているから、『隣の芝生が青く見える」よろしく、空だって爽快感をもたらすことはなく、同じ空の下にいてもそれを享受する他人のもののような、誰のものでもないものも人ごとに思う。最初海のことを否定しなかったのに空をよく思わないのは、海は自分を殺してくれるから、なのかもしれない。
自分の中に何かが入ってくるのはキモチワルイし、匂いと音と光を感じる街は、心が目眩を起こしそうになる。本当に、別に誰も死んで欲しいわけじゃないし、むしろ死ぬなら自分だと思っているのに、全員いなくなって欲しい、生きることを感じさせないで欲しいと嗚咽しながら、でもそこで生きるという選択しかできないというのは、エゴの裏でまた弱かろう苦しかろうだよな〜と。「違う命が揺れている」ってすごいな。私はこのフレーズからいいことをイメージするなんてできないなー。

「雲間からこぼれ落ちてく 神様たちが見える」というフレーズがあったからこそ、私は「煙」の中の1つに前述した『雨上がり、夕暮れが始まるか微妙な時間に、ベランダ会話しながらで吸うタバコ』もあるだろうなと想像したんだよな。生きている間に本当に「生きてる」に振り切れているときは相手を強く抱き締められているときなんでしょうね、と思うと、本当は生きる方に全振りしたいんだよな〜と思うんだけど、思うんだけども、それまでが死に向かい過ぎてるので、果たしてそれが幸せなのかって客観的に言い切れないでしょう。
生きるってことが絶対的に「良いこと」かどうかは結構難しいと思うし、死ぬことが必ずしも「悪いこと」ではないと思う。だから、「一度観たような道」を最初は帰ってき、次は逃げることもある。それでいいと思う。

曲の展開や音の選びかたについても書きたかったけどぜってーそっちの方が長いので今日はここまで。

私は自分が歌おうとすると、どうしてもレゲエみたいな体の使い方をしてしまうんだよなー、草野さんの「歌うキモチよさのための無駄な音をいれてない」感は本当に尊いと思うし、私にはまだできない。
だって私は褒められたいし目立ちたいからね、「強く抱き締めたなら」の後に後ろからギターがきますけど、その音もヴォーカルで入れたいもの。でもヴォーカルで入れないからこその「強く抱き締めたなら」を程よく雲散霧消していく効果もあるのだろうし。

ちなみにモーニングは美味しかったです。コーヒーは酸味より苦味派なので、そこは「溶け合え」ず。(おい