dalle’s blog

大体音楽と馬と個人的な記憶の記録にシフトしていくようにしています

小生、認知が歪んでおり、候。

私は認知の歪みを持っていて、それを治そうとしている。

うーん、正しくは、シンドイ原因が認知の歪みのような気がするので、取り除けるならやってみようかな?という感覚に近いかもしれない。


私自身、周りと違う事が凄く気になる性格で、自分の考え方や感じ方がおかしい(そのときは「おかしい」という、受け入れ方をした)事は分かっていて、ずっと普通になりたいと思っていたし、今もまだちょっと思っている。おかしい、というのは、普通でないので、個性を認められない限り、社会で必要とされる可能性が極めて低いという恐怖感も常にある。


認知の歪みを克服するにあたるまでの道中、一番辛かったのは、「人に指摘されること」だった。私が自分で気づいていて、でも「おかしい」としか思えてない時に指摘をされると、「やっぱお前おかしいよ」と言われている気がして、ドンドン歪みに拍車がかかっていた気すらする。影で言われたら尚更、「あいつw頭おかしいww認知の歪み気づいてないアホwwうはw」とでも言われてる気分だった。

やっぱおかしい、私はおかしい、治さなきゃ、みんなと同じに戻さなきゃ、普通に、普通に、普通にならなきゃ、と自分で追い詰めていった。


今そこから抜け出しつつあり、そう、ポイントはまだ完全脱出してないところなんだけど、克服したいな、と思えたのは、100周回って「自分は自分のことだけ考えるのが基本的に正解である」というところに今来ているから。自分のことだけ考えたらだめ、優しくしなさい、他の人の事を考えて、というのは、自分のことを考えつくして最後残った余裕というか、エネルギーでやる事であって、自分を削ってもどうしようもないと思える。

加えて、ありがたい事で論理的に「あなたはそのままでいい」と言ってくれるひとが周りに増えた事。私は論理的なタイプなので、ある程度紐解けるもの、もしくは紐解く必要のないもの意外は基本的に信じる事が難しい(紐解く途中、紐解けるのに手をつけてないものは信じない)そのいずれかで私にアプローチしてくれる人がいてくれることはありがたい事。


今。だから、今取り除くチャレンジが自主的にできる。もしかしたら、この歯車はまた動いちゃうかもしれないから。


苦しみの渦中にいる時に、その人に対してできる事は想いを馳せ、想像し、然るべき本人の自主的タイミングに(必要とされれば)手足として登場することぐらいだと思う。

いくら他人を助ける気持ちでも、心はゆらいじゃいけない。苦しみから這い上がろうとする人はバランス感覚が弱いので、文字通り「支える」だけ、それ以上でもそれ以下でもないのがお互いにとって良いんだろうと思う。それは、人間と人間であれば、立場は関係ないんじゃないかなぁ。


当事者は当事者しかなれない。

己の苦しみも、他人の苦しみも、どうか柔らかく遠くなるように、自分は自分のできる事をやるだけだね。