感受性と夜の泡
感受性はどうして低い方にコントロールできないんだろう。もしかしたら鍛えたらできるのかもしれないけど、今の私はできないのだから、できないという事でしか考えられない。
低いというと語弊があるかもしれない。要するに、あまり腹が減ってないときに「軽く食べとく」というようなことが、感受性はできない。できないというより、できたらいいなとおもう。
感じる事がいい時ばかりとは限らないのが問題だと思う。今あの映画を見たら打ちのめされてしまうだろうなとか、あの場にいたら密度の高い色を引きずってしまうだろうな、とか、自分の存在を肯定できないかもしれないな、とか、とか、とか。感じた後に襲われる事を想像しては、触れる事をためらって、すくんだ足を甘やかしたまま自分を守ることを優先してしまう。
そういう時期なのか?そういう時期なだけかもしれない。
でも、その時にしか見られないものや、触れられないものがあるのも事実だし、なくならない。それを逃したくないと思うと、チューニングしてでも触れたい時がある。
低いチューニングがしたいのは貪欲だからなのだろうか。
しかし、はて、チューニングできたとしても、私はチューニングするんだろうか。チューナーが壊れたせいにして、フルテンの感度で1粒目の雨を待ってしまうんではなかろうか。
頭で考えてる感受性はそもそも感受性と呼んでいいのか。
考えているうちにまた怖くなって、何処かに逃げ込めるまで必死に夜を越えていく。一番怖いのは明日の朝日なのに、東に向かって生きてしまう。
夜の泡になって 土に吸い込まれていく