dalle’s blog

大体音楽と馬と個人的な記憶の記録にシフトしていくようにしています

感受性と夜の泡

感受性はどうして低い方にコントロールできないんだろう。もしかしたら鍛えたらできるのかもしれないけど、今の私はできないのだから、できないという事でしか考えられない。

低いというと語弊があるかもしれない。要するに、あまり腹が減ってないときに「軽く食べとく」というようなことが、感受性はできない。できないというより、できたらいいなとおもう。


感じる事がいい時ばかりとは限らないのが問題だと思う。今あの映画を見たら打ちのめされてしまうだろうなとか、あの場にいたら密度の高い色を引きずってしまうだろうな、とか、自分の存在を肯定できないかもしれないな、とか、とか、とか。感じた後に襲われる事を想像しては、触れる事をためらって、すくんだ足を甘やかしたまま自分を守ることを優先してしまう。

そういう時期なのか?そういう時期なだけかもしれない。

でも、その時にしか見られないものや、触れられないものがあるのも事実だし、なくならない。それを逃したくないと思うと、チューニングしてでも触れたい時がある。

低いチューニングがしたいのは貪欲だからなのだろうか。

しかし、はて、チューニングできたとしても、私はチューニングするんだろうか。チューナーが壊れたせいにして、フルテンの感度で1粒目の雨を待ってしまうんではなかろうか。

頭で考えてる感受性はそもそも感受性と呼んでいいのか。

考えているうちにまた怖くなって、何処かに逃げ込めるまで必死に夜を越えていく。一番怖いのは明日の朝日なのに、東に向かって生きてしまう。

夜の泡になって 土に吸い込まれていく