dalle’s blog

大体音楽と馬と個人的な記憶の記録にシフトしていくようにしています

【考察】贅肉の見え方と砂金採りの仕方

この記事の発端は、1人の他人が私にいらんことを言ったからで、かといっていまさら考え付いたことでもないので自分の考えをまとめてみようと思った。
先に行っておくけども、別に個人を責める記事でもないし、当該人を嫌いになったわけではない。

とある日、私は自分の業種から行くとそこそこ「頑張ってここまできましたね」というようなフォーラムに参加していた。ド田舎から東京に1人でやってきて、まったく予想もしなかった業種に飛び込めたのはいろんな人が根気よく手や力を課してくださったからで、私としては自分の努力よりも、そういった人たちに感謝の念に堪えず、その喜びを伝える意味で出来事をメッセージした。最初のうち、相手はそれなりのリアクションを返してきていたのだけど、途中で以下のようなメッセージが送られてきた。
「話変わるけどさ、(有名人の)○○ってさ、太ったよね」
と。一番良くないタイミングで一番良くない話題が降ってきた。どうよくないかというと

①私が嫌いな「他人の体形の話をし始めた」:55%
②話のイニシアチブを取るために他人の話題を出してきた:40%
③私の報告事項を遮った:5%

位の内訳。
こういう話をすると良く他人から「考えすぎである」とご指摘を頂くけれども、この際言っておくと「どっちが考えすぎなのか、考え『なさすぎ』なのか、そもそも考えたことあるか?」と思って生きている。考えすぎ、と結論付けるための引き算できる母数がどの程度か、考えてあるのだろうか、と。ので、断っておくけども私に「考えすぎ」と、まさに③のようなことをしていただく必要はない。

さて、①について解説していくと、「他人の体型の話をする」ということは、倫理的なタブーの見方が一般的に強いと思う。その感覚はものすごく良くわかる。けど。けども、大体話題として面白くない。他人の太った痩せた、薄くなった修正した隠した、この話題の面白さがわからない。面白くない話題を振って来た時点で重罪であるのに、倫理観も欠けているなんて、いらないどころか嫌悪感が凄まじい。
そのやり玉に上がった有名人について、どうして太ってしまったのか、太ってしまったことによる損失や新たな可能性があるか、などについて話すことは私もできる。残酷ながら「コンテンツ」として人が変わったことについて真面目に討論することは好きだから。ただ、人が人として太ったと言われてもニヤリともできないし、意味も分からないし、何の同意を求められているのかがわからない。
会話の続きとして「副作用かなにかかもしれないよ」「むくんでしまっているのかもしれないよ」という可能性を私から提示したが、そんなこと話している自分、何なんだよ、という気分になった。

加えて、私は過去にこのようなことを言われたことがある。
「貴女はステージに立つならもう少し痩せないとね」
この言葉は胸に今でも突き刺さったままで、人の前に立つことを今でも億劫にする。
私は小さいときに家が豊かでなかったため、空腹になったことはなかったものの、他の家庭のような「食の自由」はなかった。高校生にあがると、今度はCDを買うために小遣いを切り詰め「コンビニエンスストア」という楽園に足を踏み入れないように努めた。東京に出てきてからは働き、時間に追われ、時には幾つもの仕事を掛け持ちして学費を返した。親の援助は受けなかった。そこからすこしずつ貯蓄に余裕が出てきて「やっと好きな時に好きなものが食べられる」という自由を手にした。それからごく僅かな時間がたったとき、私は先の言葉で「好きなものを好きな時に食べる」という感覚をなくした。三大欲求のうちの1つは早々と正常に機能する機会を失った。
胃はいくつもの種類の料理を受け付けなくなり、腸は正常値を忘れて下し、脳はカロリーにおびえ、「太るぞ太るぞ」と食べることに罪悪感がある。そういう人間に、たとえ本人のことでなかったとしてもそう言うことを話すのは酷だと思う。私の被害妄想は膨らんで、そのうち外も歩けなくなるだろう。

誰かの幸せを奪うかもしれないし、誰かの不幸を増幅させるかもしれないのに面白くもない話をするということはあまり建設的ではないようにおもう。こういうのが「ナンセンス」だと言うんだろう。

②について。
「自分のことを話したい」タイプの人の中で、会話のイニシアチブを直接的に取るのが好きだという人がいる。これ自体は特に否定しないし、私も主導したいジャンルや場面はある。ただ、それを「他人のこと」で切り替えてきたのが頂けない。自分の話をすればよい。幼子のように「聞いて聞いて」と自分の身に起こったこと、考えたことを話して会話を自分に引き寄せればよいのに、まさかアンタ他人様の褌を勝手に借りたばかりか汚れていると鼻で笑うなんざ、浅ましくて反吐が出る。
この手の話以外でも、私は「自分事」のできごとを話してくれる人のことが好きだ。「あの有名人が好きだ」という話は自分事である。が「あの有名人は太っている」だけでは自分事ではない。ホテルの立食パーティーで大皿をテーブルに置いたにすぎず、自分は味わうことができないどころか、消費されるかどうかもわからない。人気があったかどうか「すべて終わった後」にわかるような話題の置き方だ。

③について大したパーセンテージが割り振られていないのは「私の話など所詮聞きたい人間などおらず、この程度である」という諦めが私の心に蔓延しているからで、この諦めがなかったらもう少し高い割合を示していたかもしれない。
これについては、怒りよりも「自分に話してくれた人がいてくれたら、その時はもっと聞きたい」と思えただけだった。

こうやって分解していくと、100%の不快感だと思ったところから少し学びがあった。
考え「すぎる」るのだって悪かない。
ただ、砂金採りのような、見る人からしたらやっぱり不毛なことなんだろうけど。