dalle’s blog

大体音楽と馬と個人的な記憶の記録にシフトしていくようにしています

毒殺チューニング

おおよそ2週間くらい前から体重が増えるまま、全く減らなくなった。食べる量を減らして飲む水も減らしているのにどんどん体重が増えていく。泣きそうになりながら毎朝晩体重計に乗って、また次の計量までの間を鬱々として過ごす、という日々を繰り返した。めまいもひどいし、柔らかな頭痛も継続している。体のコンディションは最悪で、食い込んだ指輪が「新婚」という事実をかき消しているようで悲しかった。

時同じくして定期検診のために産婦人科に行った。この産婦人科は前の医院が閉院したために最近行き始めたところで、前院から引き続き、漢方を処方してもらっていた。ただ、あまりにも漢方を飲み続けている期間が長いため、肝臓への負担を検査するために血液検査をしましょう、と提案された。
この漢方を飲み始めた時の理由は、体に熱がこもってふらついたり体調が悪くなることが日常になってしまったためで、飲み始めた時は確かに調子が良かったし、体重が落ちた。気血がまわり、いらない水分が抜けていったのだと思いながら、また体重が増えることが怖く、飲み続けていたものだった。

血液検査を受け、結果を受ける前だったが漢方を飲むのをやめてみた。ネットで調べると、肝臓への負担で様々な影響が出ると書いてあり、自分に当てはまる項目が多かった。飲むのをやめると、1日、1日と頭痛が軽くなり、併せて飲んだスポーツ飲料のおかげか、トイレの回数が劇的に増えた。体が軽くなり、物理的な体重も日々減ってきている。結果が出る前に自己判断で投薬を止めるのは良くないものの、心底安心できた。私は食べ過ぎでもなんでもなかった。

ここまでであればよかったよかった、で済んだのだけれど、私は並行して「自傷行為」についての本を読んでいた。その中に、過食・拒食の項があり、日々体重に気分を振り回され、運動や食事制限の他に、下剤を服薬して痩せようとすることに対する言及があった。
これを読んで、私の体を取り巻いていた本当の意味での「贅肉」が一気に氷解した。私は正しくこれだった。最近だけでなく、大人になってからずっと体重計に気分を振り回され、食べるものを制限し、時に体重の減りが悪い時は下剤を飲んだ。歌が好きだから吐き戻しはしなかった。喉が胃酸で荒れるのが怖かった。漢方を飲んだら痩せた。運動はずっとしていたので、これを続けた。私は手段を選びながら、痩せることに執着した自傷行為をしているのとおなじだったのだ。
緩やかに、15年くらい、それが健康を手に入れる術と表向きの理由を自分につけて、飲まなくて良い漢方を飲み、無理に運動をし、体内に下剤を入れた。これは明らかに悪質な、チューニングをしながら自分を毒殺せんとする行動だった。

私が痩せることに執着し始めたのは、様々な理由があれど、はっきりと覚えている出来事が3つある。その3つは、全て人に言われたことだった。
「あれ?太った?」「妊婦さんみたい!」「あなたは歌うなら痩せないと」「妹は華奢でかわいいのにね」
全部私を殺すための呪文だった。正確に言えば、放たれた言葉はただの呪文であって、「殺すための呪文」にしたのは私だった。

だけど、はっきりと言いたい。やっぱり、他人に対して、特に10代20代くらいの人間に対して体型のことなんて言うべきじゃない。体型以外にも、外見のことを言及すべきじゃない。それは年代に関係なくそうなんだけど、若いと視野が狭いために、その価値観が自分の心をいとも簡単に蝕んでしまう。首を閉めているのは真綿ではなく、多分トラロープ。痛くて苦しいけど、SOSを発した色を考えると、とても悲しい。そんな人、作りたくない。私もそうなりたくない。

体型のことを気にしている子がいたら、みんなに言いたい。あなたはもっと気にすべきことがあるし、もっと未来を考えるためにそのエネルギーを使うことができる。それを、他人の呪文なんかに屈しないで欲しい。


1週間経ってスムーズに付け外しができるようになった指輪が、私の「余裕」を教えてくれた。

【200927時点】愛のことば/スピッツ

この間モーニングで入った喫茶店でずっとスピッツがかかっていた。

最初はいいな〜とか、懐かしいな〜とか、やっぱりベースってマジでどうにもならない(言語化できない重要性が高すぎる。ただ、それについて、いや、この話はやめよう。表立った味方より、敵が増えるだけだろう)とか思いながら窓の外を眺めていた。
あまりにも気持ちがよかったので、「南無阿弥陀仏を唱えると極楽浄土に行ける」という感覚のような、スピッツを聴くと穢れを置いていけるかもしれない、という、なんの信仰心も持たない人間のエゴをむき出しにした共通点を見出した気になって、それを誰かに伝えたいとすら思った。

そのうちプレイリストが進んで「愛のことば」が流れた時に、唐突な目眩というか、昔からこの曲に対してもっていた「嘔吐し切った後の爽快感(でも不快なことには変わりない)」が体を歩き回って『うわっ』という気持ちになった。おそらく今後もこの感覚は無くならないのだろうから、一旦今思っていることを洗いざらい記録しておこうという気になっている。

私自身はスピッツの熱心のファンではないし、生きている時間の95%は洋楽、残ったうち3%がT.M.Revolutionとほぼ規定値が決まっているので、日本の音楽自体にめちゃくちゃのくちゃににわかだし、お察しの通りこれは叩かれたりしないための保険なので、ご安心ください(自分に対して言っている、大丈夫だよ、書いても大丈夫)

https://youtu.be/adI0F9wWZ_8

まずスピッツは私の子供の時からメディアを通して触れることができた音楽だった。意識せず良く聴いた気はする。
大人になってからの一番濃い出来事もある。ある時関係があった人が楽器を手に取るきっかけになったアーティストがスピッツで、よくその話をした。その人と関係がなくなった時、あまりに私がスピッツを聞いては泣くので、「セックスしよ」が合言葉のおじさん友達に「気持ち悪いからやめろ」と言われた。気持ち悪い、と言われて愛されていると感じたのは珍しいからよく覚えている。ちなみに、そのフリーランスおじさんとはなんだかんだビジネスの話をすることが多く、合言葉は合言葉以上の仕事を与えられず、沈黙を破るお互いの手札というだけのセリフだった。

最初の「抜け出そうと誘った 君の目に映る海」という歌詞がわからない。(わからないから入るってなんだろう)
抜け出そうと誘ってくれたのは君なのか、誘った自分から見た時の、虚無を見つめる瞳に映った海を描写しているのか。いずれにせよ、ここから別に性別を感じることはないし、立場が逆であったとしてもそれは関係なく、お互いの匂いがどのくらいの距離でかげるのかという関係性を想像して計った。

お互いがいれば大丈夫だとも思わないし、自分がいれば大丈夫だと言い切れる自信などさらさらなく、ただ、一人でいることよりはいい選択な気がする、という、完全にマイナスに振り切った更地の上で灯す光のような、絶対にいいわけないのに悲観もできないという。「嘔吐した後の爽快感」でじゃない?これ以外に思いつかない。だから吹いてくる風も「なまぬるい」のだと思うし。ただ、ぬるかろうと「風」があるだけ生きている感じがあっていいよね。無風の方が残酷かもしれない。そして、本当は相手が一番大事だとも思っていない。

サビの中で出てくる「煙」は、次に続く「溶け合いながら」から推察すると、通常、セックス中(前)のタバコのような感じなんだろうけども、私は「自発的な煙、すべて」だと思って、例えばタバコだとしても、雨上がり、夕暮れが始まるか微妙な時間に、ベランダ会話しながらで吸うタバコ、夏、少し肝を膨らませてたのに5本くらいで「やっぱり帰ろう」と言ってしまった手持ち花火、寒いから買ったコーヒーが旨くなかったとき「温度を買ったのだ」と自分に言い聞かせるための吐息。そう言った時に交わされる、直接的ではなかったにしても交わされる言葉が、「愛の言葉」なのかなと思う。

そうやって「マイナスの地」に生きているから、『隣の芝生が青く見える」よろしく、空だって爽快感をもたらすことはなく、同じ空の下にいてもそれを享受する他人のもののような、誰のものでもないものも人ごとに思う。最初海のことを否定しなかったのに空をよく思わないのは、海は自分を殺してくれるから、なのかもしれない。
自分の中に何かが入ってくるのはキモチワルイし、匂いと音と光を感じる街は、心が目眩を起こしそうになる。本当に、別に誰も死んで欲しいわけじゃないし、むしろ死ぬなら自分だと思っているのに、全員いなくなって欲しい、生きることを感じさせないで欲しいと嗚咽しながら、でもそこで生きるという選択しかできないというのは、エゴの裏でまた弱かろう苦しかろうだよな〜と。「違う命が揺れている」ってすごいな。私はこのフレーズからいいことをイメージするなんてできないなー。

「雲間からこぼれ落ちてく 神様たちが見える」というフレーズがあったからこそ、私は「煙」の中の1つに前述した『雨上がり、夕暮れが始まるか微妙な時間に、ベランダ会話しながらで吸うタバコ』もあるだろうなと想像したんだよな。生きている間に本当に「生きてる」に振り切れているときは相手を強く抱き締められているときなんでしょうね、と思うと、本当は生きる方に全振りしたいんだよな〜と思うんだけど、思うんだけども、それまでが死に向かい過ぎてるので、果たしてそれが幸せなのかって客観的に言い切れないでしょう。
生きるってことが絶対的に「良いこと」かどうかは結構難しいと思うし、死ぬことが必ずしも「悪いこと」ではないと思う。だから、「一度観たような道」を最初は帰ってき、次は逃げることもある。それでいいと思う。

曲の展開や音の選びかたについても書きたかったけどぜってーそっちの方が長いので今日はここまで。

私は自分が歌おうとすると、どうしてもレゲエみたいな体の使い方をしてしまうんだよなー、草野さんの「歌うキモチよさのための無駄な音をいれてない」感は本当に尊いと思うし、私にはまだできない。
だって私は褒められたいし目立ちたいからね、「強く抱き締めたなら」の後に後ろからギターがきますけど、その音もヴォーカルで入れたいもの。でもヴォーカルで入れないからこその「強く抱き締めたなら」を程よく雲散霧消していく効果もあるのだろうし。

ちなみにモーニングは美味しかったです。コーヒーは酸味より苦味派なので、そこは「溶け合え」ず。(おい

感受性と夜の泡

感受性はどうして低い方にコントロールできないんだろう。もしかしたら鍛えたらできるのかもしれないけど、今の私はできないのだから、できないという事でしか考えられない。

低いというと語弊があるかもしれない。要するに、あまり腹が減ってないときに「軽く食べとく」というようなことが、感受性はできない。できないというより、できたらいいなとおもう。


感じる事がいい時ばかりとは限らないのが問題だと思う。今あの映画を見たら打ちのめされてしまうだろうなとか、あの場にいたら密度の高い色を引きずってしまうだろうな、とか、自分の存在を肯定できないかもしれないな、とか、とか、とか。感じた後に襲われる事を想像しては、触れる事をためらって、すくんだ足を甘やかしたまま自分を守ることを優先してしまう。

そういう時期なのか?そういう時期なだけかもしれない。

でも、その時にしか見られないものや、触れられないものがあるのも事実だし、なくならない。それを逃したくないと思うと、チューニングしてでも触れたい時がある。

低いチューニングがしたいのは貪欲だからなのだろうか。

しかし、はて、チューニングできたとしても、私はチューニングするんだろうか。チューナーが壊れたせいにして、フルテンの感度で1粒目の雨を待ってしまうんではなかろうか。

頭で考えてる感受性はそもそも感受性と呼んでいいのか。

考えているうちにまた怖くなって、何処かに逃げ込めるまで必死に夜を越えていく。一番怖いのは明日の朝日なのに、東に向かって生きてしまう。

夜の泡になって 土に吸い込まれていく

あやこちゃんのワルツ

小学校高学年の頃あやこちゃんという友達がいた。

私は子供時代すごくイケてなくて、友達もいなくて、なんならいじめられてて、なんであやこちゃんと過ごす時間があったのかまったく覚えてない。
しかもあやこちゃんはすごく頭がいいし、すごく顔立ちが整っていて、すごく笑顔が素敵で、やっぱりどうしたって、今思い出してもなんで彼女が私に話しかけてくれたのか、全く見当がつかない。

あやこちゃんには勉強も良く教えてもらったし、彼女の家までの道筋を覚えている気がするから、おうちにもお邪魔したんだと思う。団地の中をずっと駆け巡っている片側1車線ずつを道なりに、坂を少し登って右に曲がったところ。少し木々が山肌からむき出しになっているあそこまでの風景をよく覚えている。

あやこちゃんは頭がいいどころかピアノが弾けた。クラスに必ずいる「合唱コンクールでピアノを弾く子」だった。
そんなあやこちゃんに「子犬のワルツ」を弾いてもらった記憶がある。
どうして弾いてもらったのか、どこで弾いてもらったのかはっきり覚えていないけど、子犬のワルツを弾いてもらったことだけ鮮明に覚えている。
あやこちゃんのことだから、他になんだって弾けただろうし、なにか弾いてくれたはずだと思う。ベタな感じに堪えかねて、あのはにかんだ笑顔とまなざしで「猫ふんじゃった」もきっと弾いてくれていたはずだと。

ほんとうは私がその曲を「子犬のワルツ」だと知ったのは随分大きくなってからで、もう大人になりかけてたかもしれない。
ただ、また出会えたはずのワルツはなんだかとっても早くって、さっと心の中を触れて行ったきり、曲名と曲があるという事実だけ私に告げてどこかへ踊りながら去ってしまった。
私の心の中にはあやこちゃんが弾いてくれたあの曲が「子犬のワルツ」で、それは正しいだけは上書きされたりしないんだと知った。

私はもともとピアノの音楽も3拍子も好きだから覚えていたんだろうなって感じながら、いろんな人の子犬のワルツを聞いてみて、でもやっぱりあやこちゃんの弾いてくれたのが一番好きだなって思う。
スピードもゆったりだし、きっとほかに上手な人もいるのだろうけど、私が頭の中で聞いてる「子犬のワルツ」はあやこちゃんが弾いてくれたものだけ。

私が好きなのはあやこちゃんのワルツ。

お祭りにおける馬の虐待と私が考えること

発端の映像ツイートからずっとみてましたが、朝のニュースに取り上げられ、記事になるまで1週間くらい。拡散の規模に対してかなり早いピックアップだと感じました。

https://m.huffingtonpost.jp/2018/09/24/uma-gyakutai-douga-viral_a_23539628/?ncid=fcbklnkjphpmg00000001

自分が馬好きなので悲しいのもありつつ、ちょっとだけ冷静に考えてみたのですが。

 

まず、競馬は良くてこれはダメなのか、という意見について、自分が勉強したり感じたりしたことがありながらも、確実に言えるのは、馬と人の間にきちんと信頼とコンタクトが生まれなければ馬は走らないです。言うことなど聞きません。競馬の残虐性を直接否定するだけの知識を持ち合わせていませんが、毎日馬の様子を見て、調教して、寄り添って、技術のあるジョッキーが乗るから走るのです。

 

次に、お祭りに必要なパフォーマンスだと言う点について、馬を見てもらう行事は沢山ありますし、競技もあります。馬は賢い動物で、覚えるのが遅くても、覚えたら忘れないと、私は学びました。(瞬発的な判断が必要な草食動物が、いちいち物事を覚えるのが早い必要はないと思います。毎度毎度考えるより、本能に従うべきなので。)手の動きや棒の合図、あるいは軽い鞭で合図を送るだけで充分、覚えたことを再現できます。

 

今回の人間のしたことについて本当に残念なのは、信頼関係を築いて、コンタクトをとり、お互いがスムーズに目標を成し遂げる努力をしなかったことです。それをしないから、性器をむりやり掴んだり、無駄な鞭打ちをする必要がでてくるのでしょう。

 

・馬が望んでないことをしている。
・これはこういうもので、こうするのが祭りの人気を支えている。

どちらの意見も否定する気はありませんが、まだ人間の方にできることが多くありました。それをサボって無理を聞かせたのだから、私は人間の怠慢だと思う。

 

馬ははっきり言って鞭など痛くないと思います。ただ、痛くても痛くなくても、自分に悪意が向けられてることはわかるのでは、と常々感じます。馬だから良くて人にはダメということはないです。逆も然りです。

 

同じ人間だったとしたら嫌でしょう?じゃないんです。
受取手側が石であろうと水であろうと、己としての善悪は揺るがないものなのではないでしょうか。もちろん、善悪観は時間によって変化はするでしょうが、対象によって変わるという事は、飲まれているということ、観念ではないように考えます。

 

この人たちが同じように鞭打たれればいいのに、という意見についても、上記の意味でちょっと自分とは考え方違うな、と感じます。

【後編】モンゴルに行ってきた!

[5日目]コンタクト

ここで最後の朝ごはんもいつものメニューだった。でも特別、焼き立てのケーキがあった。朝から豪勢だ。

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この日は最後の乗馬。しかも午前中だけ。午後にはここを出なければいけない。今までと同じように食べて、準備して、いつもの場所に集まった。


馬の近くまで行くと、モンゴルでの伝統的な馬の捕まえ方を実演してくれるとのことで、衣装を着た方がスタンバイしてくれていた。長い竿のようなものにロープがついているだけの簡単なもの。これを持って馬を追い、首に縄をかけて捕まえる。

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群れを追って片手で自分の馬を操りながら狙いを定める。周りからほかの人間も馬を追い込んでいく。捕まった馬以外の個体がサッと退き、首に縄をかけられた馬がおとなしくなる。素人目にやっとここで成功したことがわかった。両の手で自分だけを支えて操るのがやっとの自分からしたらスピードもさることながら圧巻の技術だった。

ショーの後、技術者はバイクにまたがって帰っていった。こういう、「そこは馬じゃないんかーい!」というのがちょいちょいあったけど、逆にわざとらしさがなくてよい。見たいのは演出ではなく、暮らしに根ざした技術だから。


いよいよ最後の乗馬に。先日の体調の懸念があったので今日は無理に全部を走らないで、距離を測ってから駆歩をすることにした。相棒の調子は良くも悪くもない感じ。でもやっぱり少し慣れてきていたのか、最初よりは落ち着いている。

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最初の駈歩。馬が歩くところからトコトコ速歩を始めたところで手綱で制限をじわじわかける。馬はそれ以上早くならない。昨日はここで爆走していたので、なんだかいい感じ。前の馬たちが見える位置で走るのをやめたので残りの距離を駈歩させる。手綱をゆずって「チョ」と前進の合図をかけてやるとすぐに駈歩に切り替わって距離を詰めてくれた。ひとまず自分が意図したことが成功した。嬉しい手応え。

少し歩いて2回目の駈歩。まだ走らせない。速歩。速歩。我慢させる事で置いていかれるので、先を行ってしまった馬に、私の馬が嘶く。走りたかったに違いなかったけど、まだ走らせない。

馬も耐えている。

距離が見えた。

手綱をゆずる。

もう合図を送らなくても馬はゆずった手綱を感じて走り出し、私の「チョ」の合図で確信を得て力強く駈歩した。

乗馬を長くやっている人からしたら笑われるかもしれないけど、私はこの馬と「手綱でコンタクトが取れた」と強く感じられて、涙がどんどんあふれてきた。馬とコミュニケーションを取りながら走ってみたいと、このモンゴルに来た時にみんなの前で話した。決して約束したから、それが達成できたから泣いたわけではなかった。馬が大好きなのにクラブで難しい馬に当たるたびに心が折れた。こんなに好きなのに、どうしたらいいのかわからなかった。人と人だって、こんなにコンタクトを取るのは難しいだろうと思う。それなのに、この馬は4日の内に学習し、理解をしようと努めてくれた。今群れに置いて行かれんとする不安を堪え、私の指示を聞いている。私はいったいぜんたい、どうしてあんなに世の中のあらゆることを諦めてしまっていたんだろう。こんなに私に向き合ってくれる存在があるというのに、自分の形を確かめることばかり毎日やって、自分をどこかに置いたり、ピースをはめてみることをしなかった。一瞬のうちにこの馬が教えてくれた。色んなものがほどけていって雫になって汗と混じった。

こんなことを寸の間考えていると、馬が少し轍からそれて草むらを走り始めた。草むらはネズミの掘った穴が多く、躓きやすくて危ないので轍に誘導してやる。通常であれば手綱を開いて行きたい方に引っ張ってやるところ、片手だけで操作して轍に寄せて行く。馬は無理のない速度で轍に戻った。

コンタクトが取れたことが幻でないことが、強く記憶に刻まれた音がした。私の脳にも、草原に伸びるこの轍のような痕ができたに違いなかった。

そのあとの駈歩も私の指示を聞いて良く走ってくれた。人馬一体とは、こういうことなんだという快感が内からじわじわと自分を熱くした。

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復路では今回の参加者が全員集まって坂を駆け上がり、写真に収めてもらうことになっていた。目的地につくと20頭以上の馬が近くにいることになり、私は少し不安になった。密集しているほうが危ないし、何か起きやすい。馬同士がちょっかいを出すこともあるし、何せ私の相棒は止まっているのが苦手。少し止まらせては右に旋回させ、左に旋回させ、また落ち着いたら止まらせ、むずむずしたら少しだけ歩かせて右に、左に、少ないスペースで動かしてやる。

私は正直、もう自分の馬に意識が移入してしまっていたので、ほかの馬がちょっかいを出して来たら私もムッとした。やめてくださいよ、という気持ちで、ただしそれは明らかに事故が起こることが怖いというより、「私たちの間に入ってこないで」という気持ちだった。ほかの参加者の方に笑顔だけを向けられなくて少し申し訳なかった気もした。多分なんだかんだ言って余裕もなかったけど。

坂道は程よいスピードで無事駆け上がり、そのあとそのままほかのチームのメンバーと戻ることになった。

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もうさほど距離もなかったので危ないとき以外は特に指示をしないで馬に任せた。羊の群れを無理やりどかせてスタート地点に近づくと、途端に皆小走りになり、嘶き始めた。往路、あれだけ私を感動させてくれたのにやっぱり早く帰りたいか、そうだよね、と、妙な安心感で最後の乗馬が終わった。最後、そうやって笑って馬を降りられて本当に幸せだった。


最後の食事、昼食のメインはツナのスパゲティ。そういえばここで出た最初で最後の魚だったかもしれない。そもそも肉中心の環境の中で、こうやって私たちにあわせた食事を出してくれたことを本当に感謝しながら、すべて美味しく頂いた。


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そのままお別れの時間。と、その前に同じゲルで5日間を過ごした3人でゲルの前で写真を撮った。本当にストレスなく過ごすことができたのはこの2名の存在が大きく、毎日を十分に楽しめた。

バスの前に集まると、現地のスタッフが、そして2人の青年スタッフが馬に乗って待っていてくれた。


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ここで皆で写真撮影をした。本当に皆、良い笑顔をしていて満ちたものが帰る前からすでにあふれ出しているみたいだった。

バスに乗り込んでさよならを言った。皆がモンゴル語手帳のようなものを真似してさよならを伝えていた。ここにいた5日間、ずっと日本語で過ごすことができたので、私は言葉を覚えなかった。感謝の気持ちを伝える言葉を持ち合わせていないなんて、と、とても後悔した。

そうしている間に車輪が動き、速度が徐々に上がっていく。ああ、はやかったな、でも充実していたな、よかったな、と思いながら、ふと見るとバスの両側を馬に乗った青年たちが追いかけてきてくれていた。まるで恋人を乗せた電車を追いかけるように、馬を走らせながらこちらを見てさよならを伝えてくれている。

走馬灯とは良く言ったものだと思う。数日のことが一挙に押し寄せてきて、止められなかった。涙がぽろぽろこぼれた。すっきりなどしない。後からあとからこぼれていった。

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長く走ってくれたあと、馬と青年たちが止まって本当のさよならになってしまった。もう唇が震えて声が出なかった。隣の人が「とんでもないツアーに来てしまったね」と言っていたけどほんとにそうだと思った。思い出しては涙し、落ち着いてはまた泣き、を繰り返した。ウランバートルにつくまでの間そうやって過ごしていた。

 

首都に入ると一気に交通量が増えた。建物も多くなり、人々もオシャレで外国人向けのレストランも多くある。ここは当初の都市計画を上回る居住者を抱えるのに苦労しており、発電所やマンションなどを作っていた。こういうインプットは現地の添乗員が凄く良いタイミングで話してくれる。吸収がはかどる。

バスの中、窓側の席が暑い。


目的地で降りて、予定の最初は市場を回ること。建物の中にある生鮮食品や雑貨が並ぶ場所へ立ち寄った。

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草原と違って都市はやはり暑い。都市の暑さがある。東京の暑さと田舎の違いもこんな感じかもしれない。生鮮食品は野菜から肉から売っており、雑貨はなんと日本の百円均一も入っていた。私はモンゴルの塩を買ってみた。料理でどう使えるか、楽しみに。

次は添乗員おすすめのウールのお店へ。モンゴルは寒い土地、ウールなどの商品は質がよくとても暖かいと聞いていたので、祖母へのお土産を買うのにちょうど良かった。

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ただ、このタイミングでまた少しめまいのような感覚があり、この後のデパートでの買い物、レストランでの食事はキャンセルして先にホテルに戻してもらうことにした。現地の女性添乗員がまた付き添ってくれる。前日の熱中症でも付き添ってくれた方で、私は彼女に本当に頭が上がらない。


ホテルは日本人を中心として外国人向けのようで、日本語が話せるスタッフがいたので1人で行動していても全く困らなかった。ただ、部屋が暑い。冷房もない。必要がない国だから当然だ。窓を開けて、体を冷ますのに先にシャワーを浴びた。少し横になってホテルのwi-fiを拾いながら休んだ。少し体調が戻ってきたので、ホテルのみやげもの店で買いそびれた分を買い足した、というタイミングでほかのメンバーもホテルに戻ってきた。

皆が心配して声をかけてくれた(ほんとすいません)。ホテルはツインで、相部屋はゲルで同じだったメンバーだったので非常に気が楽だった。翌日が早い時間の出発で寝る時間があまりなかったにもかかわらず、部屋で少しおしゃべりをして過ごした。


[6日目]日本についちゃったらしい

朝、たしか5時ごろ起きたのだかなんだか、かなり早い時間に起きて準備をした。荷物をまとめてホテルのロビーへ向かうと、みんなも同じように集まってきた。点呼を取って荷物を詰んでもらい、外に出た。暑い。日本のような、朝の涼しさのような感覚はあまりない。夜の熱がそのまま残っているみたいだった。

バスの中で空港までの数十分、めいめい、旅の感想と感謝を現地のスタッフに向けて話した。中には涙がまた出る人もいて、つられてしまいそうになった。私は本当にみんなのおかげで無事に旅が終えられた、ということを話した。

空が白んで来るさ中、空港についた。荷物を降ろし、現地スタッフから最後のコメントをもらった。落馬事故もなく、ライトなチームもふくめ、みんな駆歩ができて良かった、と話していた。馬の事故は最悪の場合死ぬこともある。大けがもありうる。落馬事故がなかったのは本当に良かったことだと私も思った。

荷物を空港で預ける。並んでいる間も旅の終焉を肌で感じてじわじわと悲しくなっていた。と、同時に血圧が下がっているのも感じていた。連日の疲れかもしれない。添乗員と会話をするタイミングがあったのでそのことも少し伝えながら、後は日本に帰るだけだからリラックス、と声をかけてもらった。


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いよいよ搭乗ゲートに向かう。現地のガイドともここでお別れ。みんなでそれぞれにさよならを言った。私は連日の体調不良についてくれた女性のガイドに特にお礼を言い、ありがたかったことを伝えゲートに向かった。


そのあとは30分ほど自由行動で空港内の土産物屋やカフェでの時間を過ごした。私は歴史的/美術的な展示物が少しあったのでそれを眺めながら体力の温存に努めていた。そういえば空港のwi-fiがあったな、と思って繋いだはずみでtwitterを開いた。怒涛の日本語が目に移って一気に血が廻った。なんとtwitterで体調が一気に良くなってしまった。皆は革製品やウォッカの小瓶などをお土産に買ってきていて見せてくれた。


そうこうしているうちに搭乗の時間になった。時間があると思っていたのに意外とあっという間で、気づくと、あっさりと飛行機の席に座っていた。ただ、飛行機の出発時刻が遅れた。私たちの頼んだブランケットも遅れた。まさか私たちが頼んだブランケットを取りに行って遅れてるんじゃないでしょうね、と隣の人と会話していた。


地上から離れてしまってからは、行きと同じように機内食が出たり映画を見たりした。あまり食べなかったけど、おいしそうだった。なんだか帰りの機内食はイマイチとの情報を得ていたので、拍子抜けした。

出発が遅れたけど到着には影響はなかった。日本の上空を飛んでいるとき、美浦のトレーニングセンター(茨城にある調教施設)が見えると同じ列の人が教えてくれて、はっきりと見ることができた。最後の最後まで馬尽くし、最高だなと思った。


その数十分後、私は成田についてしまった。わあ、成田、ここが成田空港か、という変な気持ちになった。降りてからも本当にここが日本かわからなかった。だからと言ってモンゴルだとも思わないのだけど、そもそも日本であるという確信を、私たちはどうやって得ているのだろう。

荷物をとる前にまたゲートがもちろんあったんだけども、驚くことに顔認証だった。人のチェックではなく、顔写真のページを開いたパスポートを画面におき、顔を機械で認証するとゲートがあく。顔認証がこんなところでこんなに大量に使われているなんて知らなかったので、ハイテクだなあと本当に感心した。


荷物を取ってからは、添乗員が少し今回の旅のことを話してくれた。やはり天気がずっと良く、印象的な旅だったようで、そんなツアーに参加して本当に良かったなと思えた。そのあとも私の体調を気遣って(Twitterで回復していたけど)声をかけてきてくれた人がいて本当に嬉しかった。みんなで連絡先などの交換をして、空港でそのまま別れた。


どうやって家まで帰るか迷ったけど、来た時と同じルートをなぞることにした。どこから帰ってきてもそうだけど、一人の帰り道はどうしてこんなに無機質で空っぽなんだろう。帰ってきた記憶が抜けていて、ほとんど覚えていない。帰るまでが何とやらだというのに、家に着くまでのことはインプットされなかった。


帰ってからはすぐにシャワーを浴びて荷ほどきをした。空港で交換した連絡先に写真を送るなどしながら、凄い洗濯物を満面の笑みで見ていた。私はお洗濯が大好き。帰ってきてからのひそかな楽しみだったので存分に3日ほどかけて味わった。


その後も1週間にわたりメッセージの交換や写真のやり取りが続いた。私は渋谷の真ん中でその知らせを受けて、立ち止まってはそれをみた。それを見ている瞬間、やっぱり胸が熱くなったし、感覚として、渋谷にいることのほうがウソだった。


素晴らしい旅だった。不思議な旅だった。モンゴルという国に確かに私は6日間いた。でもモンゴルのことは何も知らないまま。

多分、ただただそこにいるだけ、という極上の時間だったからだと、今になって無と満への思考が回り始めた。

 

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【ありがとうso much】

風の旅行社さま

http://www.kaze-travel.co.jp/mongol

【中編】モンゴルに行ってきた!

[3日目]モンゴルを下から見るか上から見るか

また朝起きて少し散歩をした。ただ、興奮が落ち着いてきたのか先日よりはすこし寝入っていた。モンゴルの人はこんな素晴らしい景色なら早起きしちゃうだろうなと最初は思っていたけど、慣れてしまうと眠いものは絶対的に眠いし、幻想に過ぎなかった。


朝はまたおかゆやあげ菓子が出て(私はここのあげ菓子が大好き)、前日とは違うなめらかなバターが出ていた。食卓のそこかしこから「現地の何らかの動物の乳のバターなのでは」という期待が高まったすぐ後、「ウランバートルで買ってきました!」という回答がもたらされ、瞬く間に伝達された。


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この日は朝、牛の群れなどが比較的近くまで来ていた。あまりにあちらのほうに警戒心がなく、心配と不安が若干入り混じった、興奮しづらい不思議な気持ちになった。


午前の乗馬の前、ゲルのメンバーと話した折、昨晩は少し消沈した気持ちはあったけど、いろいろ気づいたことがあったじゃないか、私たちはそれだけ知っていることがあるのだから自信をもって乗れるのだ、いつも通りやれば大丈夫だというささやかな決起がおこり、私は大いに励まされ、今日は「馬を信用する」ということを念頭に乗ってみることにした。なにせこの地では絶対的に馬の方が土地を知っている。先輩に対して少々敬意を欠いていたように思いもした。


この日からレベルを考慮して分けられたグループごとに乗馬に出発した。乗ってすぐ手綱の角度を変えてみた。やや高めに、拳を前に、馬の口角に沿うように手綱が張るようにしてみた。うん、なかなか良さそう。馬も快適に歩いているように見えた。少しして軽速歩で走るタイミングが来た。体が上下に揺られる感覚が、感覚というか視覚的に見ても絶対そうなんだけども、これが小刻みにくる。びっくりして一旦馬に座った。が、座ってもいられない。なんだこりゃ。鐙の上に立っていられないどころか、速歩のペースが速すぎて、いつものように立ったり座ったりできない。いつも通りやれば大丈夫だと言ったじゃないか。「モンゴルの人は馬が走るときは立ってます」と言っていた意味がようやく分かった。だって鐙をしっかり感じながら立っているしかない。それ以外に体をうまく支えていられなかった。


走っている途中にジープに乗った陽気な外国人(注:自分も外国人)がやってきた。インストラクターが言うには競馬のレースの関連車らしい。競馬は日本のような会場を走るものでなく、30km耐久のようなレースで、この近くでそれが行われているとのこと。大きなジープが去った後、ふと丘の斜面を見ると猛禽類がちょこんと座っていた。木がないので地べたに座っている。とたんにバカっぽく、座る場所が違うだけで威厳が壊滅的に失われており、途端にペンギンが鳥類だということに納得がいった。


なだらかな丘を登り切って休憩している向かい側に、沢山の馬と車がみえた。先の陽気なジープ集団で、馬を変える場所らしかった。

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その脇では馬の乳を搾っている遊牧民がいた。馬乳酒を作っているそうで、2時間に1回絞るらしい。絞るときは仔馬のほうを繋いでおき、親が離れないようにしておくとのこと。とにかく大変な重労働だ。

復路はすこし駆歩が出た。私は乗馬クラブでまだ駈歩のレッスンをし始めたばかりだったので「うおっ、これが駆歩か…!」と、認識するだけでひとまず精いっぱいだった。


昼食にはモンゴルうどんのほかにご飯と「やいたぶた肉」が出た。うどんはこの厨房で打ったものだそうでさっぱりしていておいしく、やいたぶた肉は本当にやいたぶた肉だった。俄然食える。


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この日は伝統料理「ホルホグ」にするための羊を解体するとアナウンスがあった。私はしばらく見させてもらうか、ゲルの中で横になって考えていた。あけ放ったドアの先には草原だけが見えており、絵画が飾られているようだった。

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やはりなんとなく、解体を見ることにした。モンゴルの羊の解体は血を1滴も床に落とさないのだという。私はほかの人が言うような「感謝をする」とか「見るべきだから」という感覚より技術のほうが気になって見に行った。

直接的な描写は避けるけども、それは本当に技術的で、何よりも羊に対する―決して哀れみなどではなく―謝意のこもったものだった。羊を捌くその最後の時、前か下しか見てなかった羊を仰向けにして空を見せてやる。羊はそれで喜ぶ、と。字面だけ見れば綺麗ごとに見えるかもしれないが、実際の解体を見ればそれが「本当の綺麗ごと」だということがわかる。何も無駄にしない。解体は1時間近くかけて行われた。


夕方からまた馬に乗った。すこし手綱の位置を変えることで要領を得てきたこともあり、初日よりもお互いにストレスが少ない状態で歩けた。ただ、まだ歩くべき道を歩かず脇にそれたりほかの馬にくっついたりする。なかなか厳しい。とはいえ、道々、あの見つけられなかったネズミなども目に入るほど余裕ができ、何かの動物の残骸もいくつか見た。オオカミがいるのは本当なのだろう。

この乗馬の時間で、結構な岩場の丘に登ることになった。馬は登るのがしんどそうで息を大きく吐いている。私も傾斜に堪えるのに集中して馬の負担を軽くすることに余裕が割けない。なぜそんな、進化した中指だけで立っている身で人を乗せて歩けるのか途中から不思議で仕方なかった。私が自分の10分の1、5キロ位の子を肩車してこの傾斜を登れるだろうか。しかしそこは「馬力」。馬は登り切ってくれた、よく頑張った、と思った瞬間、

そこには絶景が広がっていた

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見渡す限り緑。平地にみえる影は、空に浮かぶどの雲が作ったのかがはっきりわかる。平原を見おろす気分は「最高」という言葉ではあまりに画一的すぎて、その美しさに涙が出た。人生にはまだ感動できることがあるんだと、それにも感動し、あの、昨日全く御せなかった馬にのってここまで来た自分にも、馬にも感情が沸き立って、ああ、なんて日だ!と大きく息を吸い込んだ。その感情の傍らで馬は草を食み、大地はただ風を受け入れている。私だけが私に訴えかけていた。


夕食は先にも書いたホルホグがメインだった。現地のスタッフにも大変なごちそうだそうで、なぜかわからないけどケーキまで出た。


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おなかが緩くなりやすいのでほどほどに、と添乗員が助言してくれた。日本で食べる羊はそもそも薄い肉で、こんなにスペアリブな羊は食べたことがなかった。風味はワイルドだけど、匂いが強いということはあまりなかった。私は骨付き肉がでると必ず肉と骨の間の薄皮まで食べる。もちろんこの晩もそうした。


夜は流星群が凄いとのことだったので寒いのをおして外に出た。寝ころんでみたくなったので、みんなでレインウェアを羽織ってカイロをポケットに入れた。寝ころんでみると視界いっぱい、星になった。どの星にも目移りして、途中、本当に星を見ているのかわからなくなった。


[4日目]ゆずる、ゆずらない

朝から犬と遊んだ。この犬、ほかの人とも良く遊んでおり、よく突撃してくる。

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汚れるのが嫌な私はいつも遠巻きに見ていたものの、撫でられすぎて毛づやが良くなってきたせいか抵抗がなくなった。非常に賢い犬で、遠くに散歩に行った人をきちんと視野の中に入れて観察している。そういえば初日の乗馬の時もついてきていたし、素晴らしい番犬だと思った。遊牧民の犬はみなオオカミ対策にやや凶暴なので、見つけてもむやみに触りに行かないように教えられていたけど、この子はやはり人なれしているんだねとみんなで話していた。

その3時間後、この犬はよその遊牧民の犬で当ツアーとは関係ない旨が告げられ、これも瞬く間に伝達された。


朝ごはんはいつものラインナップに「ハイルマグ」というものが出た。乳に小麦、砂糖を混ぜ、干しブドウを加えて焼いてある。そのまま食べてもパンに塗っても甘くておいしい。


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ただ、私はこの朝食は少し食欲がなく、初めて食事を食べきれなかったばかりか、腹が緩くなった。まあ緩くなる程度、出ないより良いだろうと思った。この日は朝から風がなく、暑かった。


朝の乗馬は「手綱をゆずる」ことを重点としようと決めた。引っ張りすぎない、ただし、馬のわがままにもさせない。昨日の乗り方を鑑みるに、ちょうど良い目標だと思った。

そしてこれが功を奏し、自己最長の駈歩を走るときにとてつもない爽快感をもたらした。時速20km超。視界は道と前の馬だけ、常に先を見て走っている。自分の馬を信用できている。口が笑い、息が早くなる。それに加えて、馬に発信の合図を声で「チョ」と送ると、私のほうに耳を傾ける。指示をきいている、と、かなり強い手ごたえを感じて非常に嬉しかった。ただ、私の馬は置いていかれそうになるとぐんぐん走る。やはり単独は不安なのだな、と馬の気持ちをすこし垣間見た。


この日は違う岩場の丘にのぼった。昨日よりも傾斜が強いように感じたけど、登り切った後の眺めへのワクワクと、この馬は絶対に登ってくれるから、という安心感があった。無事に登り切り、この日も景色を楽しんだ。

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ふと横の丘の傾斜を見ると私たちとは関係のない馬が親子でたたずんでいた。ガイドに聞くと、高い場所は涼しいのでこうやって登ってくるそう。へえとおもって往路のための準備で順番に騎乗し始めた。

その時、私の馬が私を乗せた状態で暴れた。ほかの馬と喧嘩になり、座る状態になった。両方ともなかなか離れず、ゆずらない。ここは傾斜で小さい岩がゴロゴロとしている。落ちたら平地よりダメージは大きい。何より、対抗馬が自分の左側にいる(右側にいたら、そのまま左側から降りられた)ので絶対に降りられない。慣れない右側から降りようものなら鐙が抜けず、暴れた馬に引きづられて大惨事になる。一瞬のうちに考えて、馬が立ち上がってくれることを信じて鐙を踏み、落ちないことに注力した。馬が立ち上がった瞬間、左側にいた対抗馬と自分の馬の馬体の間に左足を思い切りはさまれ、すぐに外側の腱が痛んだ。帰りにきちんと鐙を踏んで乗っていられるか不安だったので、痛くて無理だったらインストラクターに伝えることにした。言っておくけどもこれはどれだけ注意をしていても起こるときは起こる。誰の不注意でもない。


残念ながらここで不穏が終わらなかった。なんとインストラクターの馬具が緩み、落馬してしまったらしい。後ろを振り向くまで気づかなかった。馬が驚かないよう、大きな声を出さないようにしてくれたのかもしれない。衝撃が大きかったようで、歩いて引馬で帰ることになり、もう1人のインストラクターが全員を先導した。私の馬も首振りが酷くなり、雲がなく、熱い日差しから逃れられない時間が長く続いた。

ようやく出発地点が見えてきたとき、私の馬は嘶き、俄然速歩になってきた。彼が集中してくれているほうが楽なのでほっとしたのもつかの間、引馬されているはずの馬が自分だけでやってきた。引馬しているはずの人間がいない。暴れて馬だけ走ってきたのかもしれないが、この馬が私たちの中に突進してきて一色即発の事態になった。馬に乗っているインストラクターが慎重に近づき、捕まえ、ほかのスタッフも馬に乗ってやってきた。緊張度の非常に高い乗馬の時間になった。


昼食はバンタンスープとカレーが出た。カレーは昨日の羊をダシに取ったもので、羊の肉も沢山入っていた。カレーはなぜか食える。


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食べ終わるとみんなでモンゴルの民族衣装を着せてもらい、写真撮影会を行った。私は左足が痛むので添乗員から冷やすものをもらったりしながらも楽しく参加した。女性の民族衣装には一筆書きのデザインが入っていて「ウルジーヘー」というらしく、幸福がずっと続くように、という∞のような意味があるそう。

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また、男性も含めて帯をかなりきつく締める。これは馬上で内臓が揺れないように強く締めるんだとかで非常に勉強になった。そのあと、現地のインストラクターの駆歩デモンストレーションが行われてさっそうとした姿にみんな何度も声を上げた。3テイクもやってくれた。

腹が下っている。


夕方は「遊牧民のお宅訪問」の予定だった。左足も何とかなりそうだし、せっかくのお宅訪問、おみやげも持ってきているのでなのでいくっきゃない!と強気で挑んだ。それにまた、午前中味わった駈歩の快感を味わいたかった。来た当初の「走られたらどうしよう」という気持ちは消え去っていて、むしろどこまででも走りたい気持ちになっていた。

インストラクターも良く走らせてくれた。私もそれについて良く走った。途中喉がすごく渇いたけども、興奮して口を開けて乗ってしまっているんだろうなと思い、どうせ降りられないのでやり過ごした。7キロほど走って遊牧民の方のお宅についた。


3つか4つのゲルの内、1つのゲルに通された。端に長机と椅子が準備してあり、向かい側の端にはなぜかベットがあり、中央にはお父さんが競馬でもらった賞などの装飾品が並べてあった。お決まりの馬乳酒と、お菓子を回してもらい、少し落ち着いたころ、めまいがした。なんか、まずいかも。これ、このままだとバタンと行くかも。でも人の家だしどうしよう、せっかく来たのに、つうか来た日本人が倒れるとかなくない?と葛藤しながら我慢してみたが一向に良くならない。水も体に入っていかない。

だめだ、と思ってたまたま同行していた添乗員に「熱中症っぽいです」と直訴した。するとたまたまグループにいた2人の医療従事者が「顔色が悪い」といいだし、たまたま向かい側にあったベッドに寝かせてもらうことになった。本当に申し訳なかった。凄い調子に乗ったな、という後悔と、旅前の体調を崩したらどうしよう、と思っていた気持ちが一気に押し寄せてきた。その反対側から、この重なりまくった「たまたま」に対して凄いラッキーも感じていた。変な風だけど「倒れるならここ」と、段取られた気がした。皆が一生懸命あおいでくれて、水を飲ませ、塩のタブレットを舐めさせてくれた。おかげで良くなり、帰るかどうかの判断をするとき、車で帰ることもできると言ってもらえた。あと2kmだし、馬を走らせなければ帰れるかな、と悩んだけども、馬上で気を失ったら周りを巻き込む大惨事になる。申し訳ないまま、遊牧民の方のお車に乗せていただき、ゲルに戻った。

きっと昔の私だったら意地でも我慢してしまったと思う。ここで起こったことは申し訳なかったけど、直訴できたことはとても良かったと思っている。


少し横になったら割とすぐに元気になった。夜は馬頭琴の演奏会が開かれる予定だったし、外で食事を摂ると聞いていたので、参加できそうで安心した。

シャワーを終えると食卓が早めに囲まれていたので急いで席についた。ここでの最後の晩餐はおそらく「ホーショル」という揚げ餃子。この日はビールを飲んだりしている人も多く、イベントへの期待が高まる。

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そしていよいよ馬頭琴の演奏会がスタート。ご近所からも演奏を聞きに来られてオーディエンスが多い中、馬頭琴ブラザーズが登場。


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構成は馬頭琴×2、太鼓1。うち2人は昼間は一緒に馬に乗ってくれていた人達だ。この日は月が見えていて、なんだか良い緊張感があった。曲のタイトルや意味を現地の添乗員が通訳してくれる。演目は"飛べる馬の歌"から始まった。

馬の脚の緩急が感じられるリズムになっているらしく、1曲目はやや軽快。リズムが出しづらい音楽なのでは、と先入観があったものの全くそんなことはなく、馬頭琴そのもので刻む時は右手の弓で軽く弦をたたくように演奏するなど、十分にリズムを感じた。左手は弦を直接抑えているのだと思ったら爪で横から押していた。個人的には楽器の大きさに対して出音が太く大きくはっきりしていると感じた。

2曲目以降は歌も入ってややダークな曲も演奏され、横笛も登場。日本の曲を含め計8曲のセットリストを完走した。直後、もちろん熱烈なアンコールとともに手拍子が入り、ブラザーズの再演をみんなが熱望。この声に応えて2曲が演奏された。1曲で終わらないタイプのグループであったことがちょっとプロっぽい。

その後集まってくださった方たちの中から歌が上手な方がアカペラを披露してくれた。それに併せて周りの現地の方も歌う空間はいい意味で完全アウェイで、知らない歌の団結力に包まれる不思議な感覚に陥ることができた。この後は私たちの世話役であった現地の女性が「○○サン、ウタイマスヨ~!!!フウ~!!」とあおりまくり、3曲の歌が披露された。

是を宴と呼ばずして何と呼ぶ。酒を飲まない私が「いや~、飲んだ、食った」という気分になった。満たされた。馬に乗ってばかりいて忘れそうになるけど、なんだかんだ音楽は体の芯から好きだ。


この日の夜も、この場所での最後の星をみた。皆で同時ににあと1つ流れ星を見たら寝よう、あと1つ、あと1つというのを繰り返し、よそ見をして見逃した仲間とゲラゲラ笑った。

もう明日からこれはないんだと思うと寂しかった。また見逃した。余計にゲラゲラ笑った。